枇杷や書館
報鍬譚
その時、マフラーを外したバイクのような轟音が響き渡る。
「ああ、この匂いだ。雪ちゃんから何時もしていた、虫の匂い……」
そう呟いたカマドウマを見上げると、歯を軋らせるように動かしている。悔しさのような、憎しみのような、表情のない顔から複雑な気持ちが読み取れた。
「クワガタの匂いだ」
カマドウマが空を仰ぐ。私も視線の先を追うと、凄まじい音を立てながらクワガタムシが空を飛んでいた。クワガタムシは何も言わずにカマドウマを見ている。
「クワガタ! 雪ちゃんの近くにいるのは、俺だけで良い!」
そう叫ぶと同時に、私を脚一本で抱えながらカマドウマが飛び上がった。驚異的な跳躍でクワガタムシの正面に躍り出る。叫び声をあげながら前脚で掴みかかった。クワガタムシは向きを変え、顎を振りかざしてこちらに突進してきた。
「クワガタムシ!」
声をかけても答えてくれない。怒りのあまり私が見えていないのだろうか。轟音が近づくと共に、一気に血の気が引いていくのがわかる。あの大顎に当たれば、カマドウマはおろか私もただでは済まないだろう。今度こそ死ぬんだろうか。クワガタムシが来てくれたのに。こんなときまで、運に頼らなきゃ私は駄目なんだろうか。
「違う」
私はもう他人のせいにしない。運のせいにしない。死に際ぐらい自分で何とかしてやる。私は思いっきりカマドウマの脚の節を引きちぎった。悲鳴をあげるカマドウマ。しかしその声も、すぐにクワガタの羽音にかき消された。これでいい。落下する速度に身を任せながら、私は静かに目を瞑った。
目が覚めると、自分のベッドの上だった。酷く頭痛がする。また二日酔いかと頭を触ると、氷嚢が置いてある。
「あれ? 生きてる」
「おはよう。よく眠れた?」
クワガタムシ……じゃない。声と服はそのまんまだが、外身が人間だった。
「誰?」
「誰って……クワガタだけど」
苦笑してから、気が付くまで三秒。真顔になって、目を見開いて、クワガタムシらしき男が私を揺さぶってきた。
「本当? 本当に俺が人間に見える?」
「うん、ホントにあのクワガタなの? 全然虫っぽい顔してないね」
「はは、そうなんだ。俺、こんな顔なんだ」
半分笑って半分泣いたような声をあげて、クワガタムシが私の手を取って自分の顔に擦り寄せる。
「どうしてだろう。何で雪ちゃんにも見えるようになったのかな」
「わかんない。クワガタムシは、もう飛べないの?」
「飛べないことはないよ。脚も六本あるし、顎だって艶々だし」
「ふうん。人間にしか見えないけど。やっぱり、カマドウマに襲われた時からかな」
「あの時はビックリしたよ。俺がちゃんと受け止めてなかったらどうなってたか」
「私ごとカマドウマをちょん切ろうとしたくせに」
「まさか、そんなことするわけない……」
いきなりクワガタムシが私を抱きしめた。背骨が折れそうって言ってやろうかと思ったが、クワガタムシが泣いているみたいだったので、言うのをやめた。デカい図体してる割りに涙もろいらしい。息苦しいのでクワガタムシの肩口から顔を出すと、そのままクワガタムシが話し始めた。
「雪ちゃん」
「何?」
「俺ね、仏様に人間にしてもらう時に、言われてたことがあるんだよ」
「何を?」
「俺が雪ちゃんにできる恩返しってね、本当の運の範疇なんだって」
「どういう事?」
「だから、バイトクビになったり、俺と同じような虫に好かれたりは、本当の不運。けど、寝坊したり、不用意にカマドウマについてって襲われたりしたのは、雪ちゃんのせいってこと」
「振られたりレポート盗まれたりしたのは?」
「雪ちゃんの男の選び方と、不用意さが招いた結果なんじゃないかな? 案外、人を見る目がないんだね」
普段より調子に乗っているのか、へらへらしながら生意気なことを言うので頭突きをしてやる。痛い、とクワガタムシが小さく呻いた。
「まあ、虫を見る目はあるみたいだけど」
「不用意にあんたを家に置いといたのも間違った判断かもしれない」
「これからもここにいていい?」
「いたかったらいれば」
「ありがとう。それと、できれば俺のことクワガタムシって呼ぶの、もうやめて欲しい、なんて」
「じゃあ大鋸さん」
「秋広!」
終
(10/10)