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報鍬譚

 木枯らしが足元をすり抜け、身も凍るような夜だった。やけに綺麗な月が出ている。白々しい光が馬鹿にするように私を照らしていた。酒を何杯もあおったせいで、体の芯は熱いのに肌寒い。路地を彷徨う様にふらふら歩いていると、誰かが投げ捨てた空き缶が転がっていた。こんな物でも蹴ったら気持ちが落ち着くだろうか。力の入らない足を踏ん張って、思いっきり蹴り上げた。かぁんと中身のない音が住宅街に響く。垂直に振り上がった脚をゆっくりおろすと、缶はどこかに消えていた。落ちたような音がしなかった。ぼやける目であたりを見回してから、どこかの植え込みにでも入ったのだろうと、気にしないことにした。空き缶も逃げ出すほど、今の私には運がないのかもしれない。やっとたどり着いたアパートの階段を登りながら、ここ数か月のことを思い出した。一段目。朝寝坊して授業に遅れる。二段目。その場に私がいなかったのをいいことに、授業で分けられたグループの面倒な役割を押し付けられる。三段目。徹夜で仕上げたレポートの内容をグループの女に丸ごと盗用される。四段目。彼氏にフラれる。五段目。振られた翌日に元カレが知っている女と歩いているところを見かける。六段目。バイトをしていたガソリンスタンドが、セルフ化するにあたり必然的にクビになる。七段目。収入が少なくなり今月の家賃を払うと食費がなくなる。八段目。単位を落とした。九段目。生活費が足りないのに無理やり飲み会に参加させられる。十段目。やけになって飲みすぎる。十一、十二、十三。駄目だ、駄目だ。どんどん虚しくなっていく。心なしか階段を登る速度も速くなって、鉄板をうるさいくらい踏み鳴らしていた。最後の一段を踏みつけようとしたその時、足元に何かいるのが見えた。黒っぽくて蠢いているそれを避けて踊り場にしゃがむ。よく見ると、それはひっくり返ったクワガタムシだった。クワガタムシなんて初めて実物を見たのだが、結構大きい虫なんだな、と思った。こんなところでひっくり返っているのだから、大方壁にでも衝突したんだろう。こいつも運が無いんだな。せめて私が助けてやろうと、その辺に飛んできていた落ち葉に引っ掛けて起こしてやった。起き上がったクワガタムシは、置物のようにピクリとも動かない。試しに背中をつつくと、ちゃんと歩き出したので私も立ち上がる。

 

「クワガタ助けたんだから、何か良いことあるといいなぁ」

 

呂律の回らない口で独り言をつぶやいてから、部屋の鍵を開けて中に入った。

 

 

頭が痛い。完璧な二日酔いだ。頭の内側からハンマーで殴られるような痛みが走っている。昨日は玄関に入ってから記憶がない。寝ている場所すら怪しいので、頭を押さえながらのっそり起き上がると、ベッドの上だった。どうやってここまで来たんだろうか。唸りながら昨日のことを思い出していると、台所から良い匂いがしているのに気が付いた。

 

「ん……?」

 

居間と台所を仕切っている擦りガラスに大きな人影が映っている。ぞわりと背筋を走る悪寒と共に、一気に目が覚めた。緊張のあまりか頭痛さえ吹き飛んで、たまたま近くにあったテレビのリモコンを握り締める。何故か私の家で料理をしている誰かは、軽快な音を立てながら何かを刻んでいた。扉の向こうにいる誰かに気付かれないように、ゆっくりゆっくり近づく。扉に手をかけようとしたその時、包丁の音が止んだ。まずい。急いでベッドに戻ろうとしたが、怖くて体が動かなかった。扉が勢いよく開けられる。咄嗟に下を向いた。

 

「おはよう。ご飯、作っておいたよ」

 

男の声だ。だが妙にくぐもっている。何で私の家で私の朝食を作っているのか。私が見ている足元には、太い木の枝のようなものが二本立っていた。男の脚ではないのは確かだが、私はこんなもの拾ってきただろうか。男の所在を確かめ、あわよくばリモコンで一撃をお見舞いするために思い切って顔をあげた。ミキミキと固いものが擦れる音がする。鋭い爪のついた足で器用にフライパンを掴んでいた。いい天気だねーと言葉を喋る茶色いブラシ状の口。猫背にしていないと天井に届くくらいの二本の顎。私の目の前にいたのは人間ではなかった。

 

「冷蔵庫にあんまり食材なかったからフレンチトーストなんだけど、口に合うかな?」

 

私は叫ぶこともできずに、その場に崩れ落ちた。

 

 

 

 

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