枇杷や書館
福利厚生のすす め
「は? ……え」
上妻さんは何故か、ハンカチを傷口ではなく顔に押し付けている。見るなと言われたら見てしまうのが人間だ。彼から視線をずらすと……下半身が大変なことになっていた。
「えっ! なんで! ぼっ! だって! そんな! え!」
「上妻は血を見るとこうなっちゃうんだよ」
「はっきり言わなくてもいいでしょう? せっかく伊織に塗り付けてばれないようにしていましたのに」
「いずれ分ることじゃないか。この前堂々と女子トイレから例のゴミくすねてただろう?」
「ゴミとは心外ですねぇ。あれがあるから私は元気に出社してるんですよ」
「えぇ? 毎日飲んでいるのかい? ほんと、物好きだよね。ふふふ」
2人は血まみれで笑いあっている。さっきまで殴ってた人と殴られてた人には思えない。というか思いたくない。僕の職場には、結局おかしい人しかいなかった。もうやだ。仕事しよう。五月女さんとフラフラの上妻さんとオフィスに戻る間、僕は一言も口を利かなかった。現実を見るくらいなら仕事したかった。
「吉田? 目が死んでるぞ?」
「上妻の変なの見たからショック受けちゃったんじゃないのかな?」
「……」
帰ってきたら伊織さんがまた悪戯書きをしていたらしく、猫とウサギの他にリボンと花が増えていた。油性ペンだった。いろんな人に対して様々な感情が爆発しそうになったが、それでも我慢して右手を動かした。帰りたい。今日は早く帰って寝たい。実家に帰りたい。うちの猫と戯れたい。
気が付くとすっかり日が暮れていた。時計を見ると5時をとっくに過ぎている。何とか図形以外の文章は書き終えたが、これからさらに書き出したものをパソコンで清書しなければならない。かなり遅い時間までの残業が確定してデスクに蹲る。今日中なんてできるんだろうか。誰か手伝ってくれやしないかと辺りを見回したが、僕しかいなかった。皆定時退社したらしい。
なんだかいたたまれなくなって、また蹲った。すると、僕の背中に薄い毛布が掛けられる。驚いて振り返ると、水上さんが立っていた。
「あれ、帰ったんじゃ」
「し、社長と、愛様が、まだいるよ」
社員が社長より先に定時退社とか本当にどうなっているのやら。僕の顔に呆れが出ていたのか、水上さんは取り繕うように言った。
「えと、今日はあい、愛様たちは、外でしょ、食事だから、帰るより、し、仕事した方が、時間がちょうどいい、から。君は、かえ、帰らないの?」
「はい。まだ終わらなくて」
「そうなんだ。が、頑張ってね」
彼はぎこちなく微笑むと、そのままオフィスから出ていった。最初の一件のせいで、水上さんは危険だと思っていたけど、実は一番マトモで優しいのかもしれない。ちょっと希望が持てたおかげか、気力が回復してきたので仕事を再開した。今日から始まったばかりの社会人生活。ここに来るまではもっと楽しくてやりがいのあることだと思っていたけれど、実際は違った。というか、ものすごく特殊な環境に来てしまった。不安とだるさと無気力感しか湧かない仕事だけど、僕は勤め上げようと思う。会社の悪事が露見して、クビになるその日まで。
終
(10/10)