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福利厚生のすすめ

 桜が咲き始めた頃、僕は就職先の社員寮の引っ越しに追われていた。なかなか就職が決まらない中、結構土壇場で受けて決まったので、会社についてはあまり詳しくない。就職活動するまで聞いたことがない会社だったが、面接のために調べて見たところ結構大きな会社らしい。傘下に子会社をいくつも持っているみたいだ。僕みたいな平凡な人材よりもエリートが行くようなところで、実際僕より頭良さそうな人がたくさん会場にいた。今でも採用されたのが不思議でならない。期待に胸を膨らませながらやってきた新居だが、そこは些か当てが外れたところだった。築30年ぐらいの北向き1DKの3階建てアパートで、階段は狭いし、手すりもない。二階の一番奥が僕の部屋だ。引越し屋さんを頼む余裕がないので、僕は一人暮らしに必要な家財を一人で運ばなければならなかった。ドアの前に段ボールの山を作ってから、ベランダの手すりに寄りかかって一息つく。改めて新居の周りを見渡すと、景色のいいところだと思った。河川敷沿いに立地しているので、この季節は川のそばに植えられた桜がとてもきれいだった。昼近くの日差しが水面に反射してきらきらしている。それに比べて……ため息をついてアパートを見回すと、手入れされていないのが手に取るようにわかった。冬から溜まっているらしい水気を吸った枯葉と、風で運ばれてくる桜の花びらが階段の隅で熟成されている。きっと床下消毒とかもやってないんだろうな。悪いことばかり考えそうな頭を振ってこの先の不安を思考から離し、作業を再開した。暫くがさごそやっていると、不意に隣の部屋のドアが開いた。

 

「あっ」

 

「こんにちは。一人で大変そうだね」

 

中から姿を現したのは、外国人の男性だった。一目でわかったその理由は、髪が金に近い白色をしていたからだ。よく見ると目の色も茶色より明るい。やっぱり大企業は雇っている人も違うな、と頭の隅で思った。彼は僕よりもやや年上に見え、さわやかに笑ったときにできる笑窪が印象的だった。僕も微笑みかけてあいさつする。

 

「こんにちは。そうですね、荷物が多くて」

 

「そうか、それじゃあなかなか終わらないはずだ。手伝いたいのはやまやまなんだけど、今は手が離せないんだ。紹介が遅れたね。私は上妻。うるさくすることもあるかもしれないが、よろしく」

 

「アガツマさんですね。いえいえ、お忙しい中ありがとうございます。僕は吉田と申します。これからよろしくお願いします」

 

「ああ……君は私が指導することになっているんだ。運がいいな。……ごめん、また作業に戻らなきゃ。じゃあ、会社で会おう」

 

彼は僕に軽くお辞儀をすると、素早くドアを閉めた。見た目が外国人の割に、訛りの鱗片さえ見せない完璧な日本語だった。苗字も日本のものだったし、もしかしたらハーフとか、外国系日本人なのかもしれない。でも、僕がこのとき特に驚いていたのは、ドアを閉めた彼の手が真っ赤だったということだった。

 

 

引っ越しも完了し、少しの休日の後、華やかな入社式が行われた。選び抜かれたエリートの中に混じっていたせいで、不思議と自分自身のモチベーションも上がっていた。僕はいよいよ新入社員として大会社の入り口をくぐる。立地もさながら、会社のビルも周りから群を抜いて大きいレベルだ。地元で母さんが言いふらしても恥ずかしくない。ドキドキしながら指定された場所に向かった。研修期間も兼ねて今日から仕事を始めるらしく、5階の営業部に呼び出された。エレベーターには混雑するくらい人が乗っていたが、目的の階に行くまでには皆降りてしまった。ベルが鳴り、エレベーターのドアが開くと、目の前に上妻さんが立っていた。吃驚して思わず固まっていると、にこやかに話しかけてきた。

 

「やあ。来る頃だと思っていたよ。あ、下りないでそのまま乗っていて」 

 

僕が反応できないでいる間に、彼はエレベーターに乗り込むと、最上階のボタンを押した。滑るように上がっていく。

 

「えっ、あの、僕この階の営業部に配属されたんじゃ……」

 

「ふふ、君は出なくていいんだ。というか、そんなもの5階にない」

 

「はい!?」

 

「だから、君の職場は営業部ではなくて、30階の役員室」

 

役員室って……?」

 

「簡単に言えば私を含めた役員とか代表取締役がいる部屋だ」

 

……え」

 

取締役? なんでそんな場所に。まさか、手違いで就職させちゃいました。ごめんみ! やっぱやーめぴ! とか言って謝罪された後クビになるのだろうか。僕の不安とは裏腹にエレベーターはどんどん加速していく。

 

「本当に君は運がいいと思うよ。平社員だけど初任給は他の人より多いだろうし、何より人間関係に心配しなくていい。みんないい人ばかりだからね」

 

「そ、そうですか。それは、よかったです。はい」

 

どうやらクビになるわけじゃなさそうだ。でも、だからって僕にまで秘密にしておくことはなかっただろうに。さっきから上妻さんが胡散臭いような気がして仕方がない。いくらなんでも強引過ぎる。さっきまで明るく聞こえたエレベーターの停止ベルが、今となっては重々しく聞こえた。

 

「行こうか」

 

 

 

 

 

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