枇杷や書館
報鍬譚
帰り道、今日一日のことを振り返ると、現実味がなさ過ぎて雲の上を歩いているようだった。起きたら能天気なクワガタムシが朝ごはん作っていて、変な男に一目惚れされて、嫌な女経由で個人情報をばらまかれ、絡まれた。運が悪いを通り越して、もう呪われているんじゃないだろうか。幽霊のように項垂れながら歩き続け、気が付くと自分の部屋の前に立っていた。鍵を開けようと鞄に手を突っ込んでから、部屋の中にクワガタムシがいるのを思い出す。ドアノブに手をかけると、難なく開いた。
「お帰り、雪ちゃん」
「ただいま」
部屋の中を見ると、綺麗に掃除されていた。何から何までぴかぴかだが、物の配置は変えられていない。
「暇だったから掃除したしお風呂沸かしたし、晩ごはんの準備はしておいたし、バイトのこと言ってたから求人広告いっぱいもらってきた」
「あんた、結構有能なんだね」
「雪ちゃんが喜んでくれたら僕も嬉しいんだ」
「ほんとに、何でここまでしてくれるの? 一回助けただけなのに」
「わからない。でも、雪ちゃんが喜ぶことをいっぱいしたら、いつか、雪ちゃんにも俺が人間に見えるかもしれないなって」
「恩人に人間姿を見せたいってことか」
「それだけじゃないんだけど……まあいいや」
「何?」
「まだ言わないでおく」
クワガタムシは静かに笑うと、また私の頭に前脚を置いた。すると、何かに反応したように顎の横の触角を動かす。
「なんか、香水みたいな匂いがする」
「ああ、なんか変な人に絡まれちゃって」
「どんな人?」
「なんだっけ、円佑馬とかいう」
「男の人か、大変だったね」
「うん。連絡先とか、みちるが勝手に教えちゃってたみたいで」
「そうなんだ」
興味なさそうな声で返答してはいるが、凶器みたいな顎をぎしぎし動かしている。なんだか怒っているみたいだ。そういえば、タブレットで見たサイトにノコギリクワガタは気性が荒いとか書いてあった気がする。
「ねえ」
「何? お腹すいた?」
「もしかして怒ってる?」
「怒ってないよ」
「ホントに?」
虫頭なので表情といった表情はないが、目が泳いだ気がした。猫背にしている背中をさらに縮こませ、私の耳元にブラシ口を近づける。
「……ちょっと怒ってる」
「何で?」
「雪ちゃん、きっと怖い思いしただろうから」
「あんたには関係ないことなのに?」
「雪ちゃんが嫌なものは俺だって嫌なんだよ。俺が解決できない事なら、なおさらね」
「大した忠誠心だこと」
(6/10)