枇杷や書館
福利厚生のすす め
五月女さんの方を振り返ったのも束の間、オフィスの方から悲鳴が聞こえてきた。慌てて僕たちが向かうと、上妻さんが伊織さんの顔面に血を塗りつけているのが目に入った。
「やめてよ気持ち悪い!」
「んー、やっぱりお前は駄目だな。塗っても可愛くならないのはお前と内臓くらいだ」
「最低! 変態!」
あまりの光景に立ちすくんでいると、後ろから五月女さんが僕に言った。
「ああいうやつなんだ」
「普段から?」
「普段から」
「もしかして、五月女さんもあんな感じなんですか?」
「僕は違うよ! 僕はこの中じゃいたって普通だから」
うろたえることなく言い切った。だけどほんとかどうか怪しい。ふと気が付くと、上妻さんがいつの間にか近くまで寄ってきていた。
「絆創膏もらえるかな」
「ど、どうぞ」
「ありがとう。……伊織の化粧ついたかな。洗って来るか」
上妻さんはぶつぶつ何かつぶやきながら給湯室に戻っていった。
百枚のデータを手書きで写せという馬鹿みたいな仕事を黙々とこなしていると、お昼の時間になった。上妻さんに誘われて一緒に社員食堂に行くと、食堂なんて言葉じゃ憚られるくらいのおしゃれな空間が広がっていた。カフェテリアとか、レストランの方がふさわしい。オレンジを基調とした照明が設置されており、光も強くなくパソコンで酷使した目には優しい。ガラス張りなので窓際の席からは街が一望できる。今までの人生で一番濃い午前を過ごした僕にとっては、とても癒される場所だった。
「気に入ったかな。結構人気があるから、少しうるさいこともあるけど、なかなかいいところだろう?」
「はい! やっぱり大企業は違いますね」
「ふふ、社長も喜ぶよ。それはそうと、頼んだ仕事の途中で悪いんだけど、午後から私に付き合ってくれるかな。少しだけでいいから」
「いいですけど、何するんです?」
日替わりランチのオムライスを食べていた手を止めて、彼は僕をまっすぐに見た。なんだか真面目な話らしい。
「隊長に提出するものがあって、その時に部屋の外で待っていてくれればいいんだけど」
「み、見張りですか?」
「うーん……間違ってはいないかな。とりあえず頼んだよ」
「わかりました」
ダイエットドリンクの話を聞いてから、僕の中ではもう怪しかろうが怪しくなかろうが仕事をする覚悟はしている。上司が変態だろうが仕事が犯罪だろうが何でもやってやる。とっ捕まってもやり直せるけど、死んだらやり直せないからだ。そしてあの社長に刃向かう根性もないのだ。
「思ったんですけど、僕って終身雇用になるんですか?」
「そうだと思う。少なくとも使えるうちは、雇ってもらえるはずだな」
「……使えるうちは」
「社長は基本、そういう人だからね。役員室の私たちのことは、会社の歯車程度にしか見ていない。水上が良い例だ。あいつは自分の歳も名前も分らないのに、愛様と社長の言うこと聞くってだけで雇われてる。そういえばあいつの名前もダーツで決めたんだったな」
「社長って、法律どころか人権すら無視なんですね」
「あの人に怖いものはないからな。……そろそろ行こうか」
食器を片付け、オフィスに戻ると、伊織さんがパンをかじりながら僕の作っていた手書きの書類に何かしていた。嫌な予感がして小走りに駆け寄る。彼女の背後から覗き込むと、空白に猫とかウサギとかを描いている最中だった。
(7/10)