枇杷や書館
福利厚生のすすめ
「ちょっと! 何してるんですか!」
「きゃ! な、わ、私の胸覗かないでよ!」
小気味のいい音が僕の頬から部屋に響いた。……何で?
「最低! 変態!」
僕は注意しただけなのに。何で顔面に血液塗り付ける人と同類扱いされなきゃいけないんだ。不条理にも程がある。床に座り込んであっけにとられていると、上妻さんが僕の前に立って伊織さんを止めに入った。
「伊織、お前が大事な書類にドヘタクソな絵を描いてたから彼が怒っただけだろう。お前の下敷きみたいな胸なんて誰も見たいと思わない。たとえ牛みたいな胸でも見たいと思わない。気持ち悪い被害妄想は止めてさっさと彼に謝れ」
「何なの! 二人がかりでセクハラとか屑よ!」
「話聞け。あとまだ顔に血がついてる。見苦しいから洗え」
「くたばれ!」
伊織さんは泣きじゃくりながらオフィスから出ていった。
「大丈夫か?」
「はい……伊織さんは正直、一番マトモだと思ってたので吃驚しただけです」
「ふふ、あいつは水上と隊長の次にイカレてるぞ。この中だと私でもマトモな部類に入るからな」
あれ? でもさっき五月女さんは、上妻さんを自分よりおかしい奴扱いしていた。もしかして、自分はマトモだと思ってる奴はマトモじゃないという通説通りなんじゃないか。
「とにかく、五月女さんに何か出しに行くんでしょう?」
「そうだな、じゃ、来てくれ」
上妻さんは自分のデスクに置いてあったアタッシュケースを持って、僕と一緒に22階の会議室に向かった。五月女さんはすでにそちらにいるらしい。エレベーターに乗っている間に思ったことだが、社員同士のやり取りなら、わざわざ誰かが見張りしている必要はないんじゃないかな。他の社員に見られたくないのなら、役員室でやればいいのに。考えれば考えるほど僕の必要性が感じられなかったのだが、とても言い出せなかった。なぜかというと、上妻さんがずっと陰鬱な表情でため息をついて首を回していたからだ。話しかけちゃいけない雰囲気を醸し出している。荷物一個渡すだけなのに、どうしてこんな嫌そうなんだろう。目的の階につくと、僕は彼の脱いだジャケット持たせられた。
「どうなるかわからないから、一応持っていてくれ」
「いいですけど、そんなに構えることなんですか?」
「できれば隊長と二人にはなりたくないな」
「でも、僕の時は二人にしましたよね」
「考え直すための手段なら、選んでいられないだろう」
「まあ、おかげでダーツゲームは避けられましたけど」
暫く歩いていると、会議室が見えてきた。アタッシュケースを持った上妻さんが中に入っていく。ドアの隙間から少しだけ煙草の匂いがした。五月女さんを待たせてしまっていたみたいだ。まさか、上妻さんが怒鳴られてしまうんだろうか。五月女さんと話した感じだと、優しそうな彼が文句を言うところは想像できない。言ったとしても小言程度だろう。でも、やはり上妻さんの様子が気になる。僕は周りを確認してから、そっとドアに耳を押しあてた。
「調整は上々みたいだね」
「ええ。もうすぐですよ。向こうはまだ気づいていませんし、知るときは世間に出回ってからです。抜かりはありません」「ふふ、嬉しいな。でも、そろそろ戸籍変えないと危ないんじゃないかな? 」
「そうですね、じきに社長が下さるでしょう」
「そっかそっか、ふふふ。ところでこっちの件だけど、うまくいってる?」
「もちろんです」
思ったより普通のやり取りで拍子抜けがした。特に五月女さんは機嫌が良いようで、時折笑い声を漏らしている。会話の内容も気になるので、僕はそのまま盗み聞きを続けた。
「いいな、私は嬉しくて仕方ないよ」
「そうですか」
「社長に報告する時が楽しみだなあ。喜ぶだろうなあぁ」
突然部屋の中で鈍い音が聞こえた。何か固いものがぶつかる音だ。連続して聞こえる音とともにうめき声と、ふふふふ、と五月女さんの笑い声が聞こえてくる。もしかして、五月女さんが何かやっているのか? とても恐ろしかったが、ほんの少しだけドアの隙間から覗いてみた。
(8/10)