枇杷や書館
福利厚生のすすめ
そそくさと上妻さんの背後に行ってしまった。……いくらなんでも頭のネジがぶっ飛びすぎではないだろうか。緊張していたというには会話が成立しなさすぎる。僕は頑張って笑顔を崩さないようにしていたが、これには不安にならざるを得なかった。
「すまないね、彼はあがり症なんだ」
「そ、そうですか」
その割には汗ひとつかいてないし、顔色も変わっていなかった。一気に水上さんが不審人物にしか見えなくなっていたところで、残った女性の紹介が始まった。
「最後になりましたが、このお方が社長夫人にあらせられる愛様。ただ遊びに来ておられる方なのだがな、私たちの癒しにおなりになっている」
いきなり滅茶苦茶な文法の敬語にこれでもかというくらい謙譲語と尊敬語を使って、上妻さんが言った。上司と言っていた五月女さんとはえらい違いだ。それでも社長夫人は言われ慣れているようで、上妻さんに微笑んでから僕の手を取った。暖かくて柔らかい指先が僕の手の甲に触れる。
「真面目そうで良い方がいらっしゃって、とても嬉しいの。これからよろしくね」
「は、はい!」
テレビに出るような女優なんか目じゃないくらい美しく、可憐な人だ。社長夫人という名に恥じない気品もある。母性を帯びた優しさに、僕は耳が熱くなった。
「ふふふ、いいお返事」
包み込まれるような声で褒められて、照れ笑いをしていると、不意に夫人の背後から恐ろしい視線が僕に突き刺さった。社長が無表情で僕を見ている。顔が整っている人の無表情ほど怖いものはないと、この瞬間に思い知った。即座に手を放して後ずさると、首元に冷たいものを感じた。
「……?」
ゆっくりと振り返る。いつの間に後ろにいたのか、水上さんがペン立てから抜いたらしい鋏を僕の首に向けていた。恐怖で声が出ない。彼の顔を見ると、怒りなどは全然なく、むしろ振り向いた僕に、何か用があるのかとでも言いたそうに笑った。笑ってるのに何故かがりがり親指の爪を噛んでいる。刺さらなかったのは上妻さんがミシミシ音が鳴るくらい水上さんの腕を掴んでいたからだった。額から変な汗がどっと溢れ出す。
「あら、みんな黙ってどうなさったの?」
1人だけ首をかしげる夫人。鋏は彼女からは死角らしく、見えていないようだった。
「愛、なんだか妬けてしまうぞ?」
「もう……人前でこういうことをなさるのは、おやめください」
視線を夫人に戻すと、社長が後ろから彼女を抱きしめて何かよろしくない事をしていたので視線を逸らした。他人のああいうのは見ないに限る。うん。でも、そういうことは水上さんをどうにかしてからとか、僕の仕事の説明が終わってからとか、家に帰ってからとか、落ち着いた時にやってほしい。前にも後にも大変なことが起きていて頭が追いつけなかった。身動きが取れないでいると、いきなり上妻さんが声を上げる。
「紹介が終わったところで、仕事の話をしたいんだが、いいかな? 水上」
「うっ…ううう……」
素直に腕を下ろした彼だが、何故か号泣していた。子供をあやすように声をかけてから、五月女さんが手を引いてどこかに連れて行った。伊織さんはなぜか笑いを堪えていた。
何だろう。何かがおかしい。このオフィスにいる人たちは、まともな倫理観を持っていないのか? 人に刃物を向けていたのに誰も騒がなかったし。普通なら警察呼んだっていい話だ。
「おや、大丈夫か?」
「え?」
「顔色が悪いな。具合でも悪いのか?」
上妻さんが怪訝そうに僕を見る。具合が悪そう? この人は今何を見ていたのかわかって言ってるんだろうか。
「だって、刃物向けられたんですよ? 平気な方がおかしいじゃないですか」
「ああ、あれは君が悪いから仕方ない」
「はあ!?」
思わず大きい声を出してしまった。彼はきょとんとして、まるで僕が変みたいな顔をしている。
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