枇杷や書館
報鍬譚
顎の掃除が終わり、クワガタムシの腹に寄りかかりながら携帯を弄っていると、みちるからメールが来た。今度の土曜日に、飲み会があるらしい。
「土曜日遅くなるね。みちるに飲み会呼ばれた」
「わかった。飲みすぎないでね」
「歩けなかったらタクシー呼ぶよ」
「そうなったら電話して。迎えに行くから。本当に気を付けてね」
クワガタムシの心配をよそに、土曜日はすぐにやってきた。よく学生が飲み会で使うお店には、すでにみちると数人の女子がいた。よく見ると、そこに混ざって何故か遊び人がいる。
「雪ちゃん、久しぶり」
「どうも」
「今日はたくさん飲もうね」
「まあ、ほどほどに」
少ししてから男性陣が集まり、飲み会が始まった。私は酒が好きなので、人目もはばからず何杯もあおった。他人と話すのが苦手なので、飲むのに忙しい人を演じているだけなのかもしれない。話しかけられる前に、好きな酒を浴びるように流し込んだ。誰かと会話しているより、たくさんの種類の酒を飲む方が楽しい。ふと頭の隅で、こんな飲み方をしていたらクワガタムシに怒られるかとも思ったが、酒の旨さにすぐに思考は吹き飛ばされた。どれくらいの時間がたったのか、皆がすっかり静かになった頃。最後のボトルを飲み干すと、遊び人が近づいてきた。
「雪ちゃん、大丈夫?」
「ちょっと、飲みすぎちゃったかな」
「どうする? もう帰る?」
「そうしようかなぁ」
「じゃあ、タクシー乗り場まで送っていくよ」
遊び人は遊び人らしくフェミニストでも気取っているのか、ふらついている私についてきた。店から離れても、タクシー乗り場が目の前に見えて来ても戻る様子がない。大丈夫だからと言っても戻らない。酔っぱらって気が立っていた私は、大通りに出る前の路地で止まった。
「ねえ、なんで戻らないの」
「雪ちゃんと、二人きりになりたかったからかなぁ」
「気持ち悪いこと言うな」
「本心だよ。本当、やっと二人きりになれた。あのときも、雪ちゃんすごく酔っぱらっていたね」
「は?」
「雪ちゃん、ガソリンスタンドでいつも頑張ってた。なのに、辞めさせられたんだ。可哀想に」
「何言ってるの?」
つい最近感じたことがあるような悪寒が、背中に広がった。私より数歩先を歩いている遊び人の足取りは軽い。スキップでも始めそうなくらいに嬉しそうなのがわかる。
「だから、見てたんだよ。ずっと。名前もさ、わかりやすいようにしてたけど、気づいてくれなかった」
みしみし、ミキミキ、ぎしぎし、聞きなれた音が、遊び人から聞こえてきた。不自然に遊び人の身体が曲がっていくのに、私はすっかり怖気づいてしまって、その場から動けなくなっていた。頭の中で必死に逃げろと命令しているのに、足が動かない。
「雪ちゃん、可哀想だった。何かしてあげたかった。だからあの夜も、君を追いかけたんだ。なのに……なのになのになのに」
遊び人がゆっくりと振り返る。大きく曲がった背中。異様に長い触角と後脚。体中に広がる斑模様。街灯のかすかな光に照らされた複眼からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれていた。
「どうして俺を殺したんだ!」
複雑な構造をした口から、悲痛な声が漏れる。目の前にいたのは、大きなカマドウマだった。
(8/10)